第17回
火災、新天町を襲う(1)

■新天町はこれまでに、大きな火災を2度経験している。
 1度目は1954(昭和29)年5月1日、どんたく直前の夜のことだった。午後11時40分ごろ、北通りの1軒から出火。たちまち20店舗と町外の3戸、合計23戸が全焼し、2日の午前1時半ごろに鎮火する。1歳の子どもが焼死、消防士を含めて7人が負傷する大惨事となった。
 次の日の朝刊にはでかでかと「狂う炎 逃げ惑う子 西風にあおられ軒並炎上 『どんたくなのに』と呆然」(5.2西日本新聞)の大見出し。記事にはその様子が生々しく伝えられている。
 「アッという間もなかった。福博随一を誇る新天町商店街北通りは一瞬にして燃え上がった。どんたくをひかえ競って仕入れた衣類、化粧品、履き物類など、ケースのままどんどん路上に投げ出される。その上を踏みくだいて消防ホースが何十本と引っぱり出され、ぐいぐい伸びていく。同商店街ご自慢のアーケードに妨げられ、水の伸びも思うにまかせない。(略)岩田屋屋上高く吹き越えパチパチ流れ飛ぶ火の粉のうず。(略)」
 翌日2日、西鉄名店街はにぎり飯を炊き出して激励。新天町ではすぐさま被災店主を含めた緊急理事会を開き、新天広場に仮店舗を出そうと福岡市に申請する。許可が下りると、突貫作業を進め同月18日には仮店舗が一斉開店。全店で「復興大売り出し」を行った。火事跡見物か人情か、客の流れが変わったのか、以前に増して売り上げが良かったという。
 心温まる話がある。草ケ江小学校5年4組の児童たちから500円、舞鶴中学校生徒一同から7000円余りの見舞金が寄せられたのだ。新天町の人々は大感激。「1日も早く復旧してお礼をしよう」と誓う。その年の秋、新天町は舞鶴中に国旗掲揚台を、草ケ江小学校には児童文庫セットを贈っている。

 

   
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