第19回
どんたく復活

■戦争の影響を受け1938(昭和13)年限りで途絶えていた福岡市民のまつり「博多どんたく」。復活したのは戦後47(同22)年5月だった。福岡市と福岡商工会議所の音頭取りで実現したのだが、その裏には新天町の安武孝一、下澤轍、右田静茂氏の活躍があったことはあまり知られていない。3人は自転車にまたがって焼け跡を回り商店主などに声掛けを行った。最終的には商工会議所関係者と新天町の松屋喫茶店で協議。これが決行へののろしとなった。
 新天町の店主は、戦前までは博多部に老舗を構えた博多っ子ばかり。皆、復活が決まると大いに喜び大挙して参加した。
 9年ぶりのどんたくは大いににぎわった。伝統の三福神、稚児行列も繰り出した。サイドカーに乗る女性警官が先導に当たったのも新時代の到来を感じさせた。西鉄の花電車3台も登場し、街を華やかに彩った。
 しかし、人々を大喜びさせたのは、何といっても新天町の本格的などんたく隊だった。67年刊行の「新天町20年のあゆみ」には以下のように記されている。
 「新天町では畳3枚が敷ける横182センチ、幅273センチ、高さ233センチにおよぶ引き台を作った。博多では、いままでに見たこともない大きな引き台である。これに新天町店主はじめ家族、店員など100人を超す大部隊がつき添った。衣料切符の時代である。衣装そろえが大変だった。問屋にふくさがあることがわかり、これを譲り受け、6枚を継ぎ合わせてそでぬきはんてんとする。男女とも花笠をかぶり、男たちはぱっち、紅白花緒の履物、女たちはやっと空襲から守り抜いたふりそでで、おはやしもにぎやかに練り歩いた。
 どんたくの歴史は古いが過去にこんな大規模などんたく隊が繰り出した例はなく、博多っ子の度肝を抜いてしまったのであった」
 どんたくの復活に情熱を傾け、現在のにぎやかな大パレードの先陣を切った、それが新天町だったのだ。

※衣料切符…戦時中の1942年に国が実施。背広50点、ズボン・スカート12点、シャツ8点、靴下2点など衣料品に点数が付けられ配給された。都市居住者1人につき100点、郡部居住者には80点が充てられていた。

 

   
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