福岡市では毎年11月中旬すぎにあちこちの商店街で「誓文払い」という売出しをします。転勤で福岡にこられた方や旅行者などから、せいもん払いのことをよく聞かれます。そこで知っている限りをお教えしたいと思います。
「せいもん払い」とはひとことでいうと「博多商人の商売への感謝祭のようなもの」です。ふだん儲かっている(?)お礼の意味で、この時ばかりは商売抜き、儲けを考えない商いをすることになっています。そして博多のせいもん払いのはじまりは明治12年にさかのぼります。
博多の誓文払いは大阪の蛭子祭の誓文払いがヒント
ユニークなのは、それを地域の売出しにまで高めたところ
八尋利兵衛さんはエラか!
日程は本来11月18日19日20日です
せいもん払いの名称
博多の誓文払いは大阪の蛭子祭の誓文払いがヒント
明治12年、博多の町に不景気風が吹いていたころ、商売を始めて年数もたたない博多下川端の漬物商の金山堂八尋利兵衛さんが大阪に行った際、たまたま10月20日の大阪の蛭子祭(えびす)で、呉服屋の「誓文払い」を目にしました。その盛況ぶりに驚いた利兵衛さんは、「これだ!このせいもん払いを博多の多くの商店が共同でやればきっとたくさんの人が町に来てくれる」と思い、帰ってきてすぐにあちこちのお店を説得してまわったそうです。それでその年、明治12年12月3日福博呉服商28店が参加しはじめての誓文払い開催されました。当時は安売りをする店はつぶれる前の店と思われるという時代でしたので、八尋さんの説得の熱意が伺われます。
博多のせいもん払いがユニークなのは、それを地域の売出しにまで高めたところ
初年度28店から始まったせいもん払いが、年々盛況になっていくのにつれそれを見て毎年参加店が増え、明治38年には、博多の殆どの業種の店が参加し、博多独自の「せいもん払い」という行事が誕生したのでした。
八尋利兵衛さんはエラか。
元来、商人はそれぞれが自分勝手でばらばらという時代に、博多の町に「せいもん払い」を仕掛け、作り上げた八尋さんの知恵と熱意に敬意を表します。現在ではあちこちで行われているようですが、博多のせいもん払いがユニークなのは、いち早く、それを地域の売出しにまで高めたところです。商人は商売の神様やお客様への感謝を忘れないこと、正直なこと、消費者志向、共同の精神、それに情熱が大切だということを教えられます。八尋利兵衛さんの情熱に感謝と敬意を表したいと思います。菩提寺は博多祇園町の順正寺。
余談
明治の初め、博多は立地がよく商売がやりやすかったために博多商人の末裔たちは保守的になっていたそうです。後から商売を始めたよそ者の金山堂の八尋さんが博多に新しい風を吹き込んだのではないでしょうか。明治28年に、野村商店、笠野屋、中尾、石蔵屋、紅屋、福本、吉田、中尾支店、古井、岩田屋、肥後屋、具島、篠原、野村本店、丸三などが「正札組」を結成し正札販売を実行し、広告にもそれを宣言して大阪商人も驚嘆させたそうです。(それまでは正札という考えはなく、お客との駆け引きで商品の価格が決まる商売が当たり前でした。
博多のせいもん払いの日程は本来11月18日19日20日です。
博多のせいもん払いの日程は、いつのころからか11月18日19日20日に決まっていました。この時期は農家の収穫期が終わる頃で、多くのお客様が博多に出やすい行きやすい時期なので決めたようです。
最近は商店街連合会(福岡商店街百貨店量販店連盟)の会議で18日−20日に加えて買い物に出やすいような土曜日、日曜日が入った日程になるように決めています。
大阪の夷講誓文払いと違い、神仏の習しの日程にとらわれず消費者にあわせた日程にしているところが博多らしいと思います。
最近は、「給料日の後になるようにしたらいい」などと日程をかえようとの声もありますが、いまのところ八尋さんが始めた日程にこだわっているところです。
せいもん払いの名称
「せいもん払い」の名称のはじまりは、江戸時代に大阪のある呉服屋が夷講(商売の神様といわれるえびす様の感謝祭。)の催しとして始めた、売り出しの名称がルーツといわれています。この「せいもん」とはもともと「誓文」と書き、本来は神様にした約束を書いた文書のことです。
- 昔、遊郭があった時代、遊女にもてたいお客に、「年季が明けたら夫婦になろうね。」などと、遊女はお客にその場限りの神にかけて誓った約束の誓文を渡してはそれを反故(ほご)にするのが常でした。遊女が神にかけてした約束を破った罰があたらないように神様にお願いして払ってもらうことを「誓文払い」といいいました。それに習い、商人が「いつもはお客をだましてばかりいる店ですが(そんなことはありません)、罪滅ぼしで、蛭子様を祀って、正直に掛け値なしにする大安売りをしてます」という意味から「誓文払い」と名づけた売出しをはじめたという説があります。(博多では誓文払いの時に恵比寿様を祀ることはしていません。)
- 博多のせいもん払いは、戦後数年後までは「誓文晴れ」と言っていたそうで、これは夷祭のずっと後で行われたので、すでに誓文払いは終わっているという意味で「誓文晴れ」といったのではないかと私は推理しているのですが、大阪の蛭子祭と時期が違うのにそのまま「せいもん払い」と言うのをはばかったのではないかとも考えられます。
- 兵庫県三田市では、江戸時代に殿様から商人は暴利をむさぼっていると言われ誓文を書かされたことに始まったとの説があります。
- 大阪では元々恵比寿祭の折に呉服屋の蔵ざらえのせいもん払いを行っていた。
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戦後のせいもん払い復活1号は新天町
昭和21年に創業した新天町には博多がルーツのお店が多かったので創業の年に戦争で途絶えていたせいもん払いを復活しました。そのころは「誓文晴れ」と呼んでました。
博多学TOP 誓文払い1 誓文払い2
誓文払いに関して他に何かご存知のことがありましたらお教えください。
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お問合せ先:
(株)しばた洋傘店
福岡・天神・新天町
Email : shibata@hakatakasaya.jp
Phone:092(741)1771
Fax : 092 (712) 6604
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