博多のせいもん払いの名称の発祥が大阪に始まるということなので大阪の誓文払いについて調べていたら、なにわの町人学者といわれた牧村史陽さんが残された文献がありましたのでご紹介します。
牧村史陽編の「大阪ことば事典」より
セェモンバライ【誓文払い】(名)
十月二十二日の恵比須祭を中心に行われる商家の蔵ざらえ。廉売デー。センモンバライと訛っていう。略して
\\\− セェモン。 商人が平素の利得の罪ほろぼしのために、この日に限って、特に品物を安価に売って、神仏に謝罪しようとしたことから起ったといわれる。しかし、次第に、誓文払い用として特別廉価品を仕入れて売るようになり、日も、五日間から一週間位にまでのばされて、売らんかなの催しになってしまった。
傘さして雨の誓文払かな 月 斗
雑誌『番傘』に見える川柳に、
誓文でさしづめ要らぬものも買ひ 佳 汀
出雲屋へ来て誓文を包み替へ 舟 人
誓文払一日男世帯なり 若葉女
誓文や押され押されて買ひもせず 野井女
はぐれたるまゝ誓文を通りけり 南 北
西鶴の『好色二代男』(貞享)巻一に、「今世智賢き女郎が指先破りて筆を染め、烏の目の所は避けて、(中略)科から先へ免るゝ誓紙を取りて嬉しがるこそあさましけれ。十月二十日は誓文払ひ、唯だ商ひ大事にして、何の事も無う買うて遊ぶべし」
とあるように、誓文とは、神に誓う起請文のことで、「烏の目の所は避けて」とある烏は、それを書く紙に押された熊野牛王の烏の符印の意。嘘いつわりの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いである。京都ではこれを蛭子(えびす)講という。蛭子講は商人が蛭子神をまつるもので、もと誓文払いとは別の存在であったのが、日を同じくするところからいつしか混同したのである。
蛭子講は、俗伝によると、推古天皇九年聖徳太子がはじめて市を設けて商売をはじめさせられた時、蛭子神を商鎮守の神としたのに始まるという。東京名物の「べったら市」もこの蛭子講の名残で、もとは蛭子講の器物や塩鯛などを売る市であったのが、今は浅漬沢庵などを売るようになったもの。
ついでに書き添えておくが、京都四条通の京極を出た南側、祇園お旅所の西の端に誓文返しの神という「冠者殿」がまつられていて、商人や遊女が日頃客をあざむく罪を祓ったものである。一に悪王子ともいい、御神体は、日の神とも、素盞嗚尊とも、あるいは土佐坊昌俊ともいわれる。昌俊は義経に自分が討手ではないと誓文をしたためながらこれを襲い、失敗して誓文を反古にしたのを後悔したところから、これを祀って誓文払の神としたのだとある。
また英語にカンジャ(conjure)という語があり、呪ひをかける、または魔法を使うと訳すが、この冠者と何か関係があるのではなかろうかともいう。
牧村史陽編の「大阪ことば事典」より
牧村史陽
大阪船場に生まれ育った生粋のなにわっ子、稀代の大町人学者とよばれる牧村史陽が、四十年の歳月をかけて編纂したライフワーク。
西鶴・近松の時代から現代まで、市井の老若男女のことば六四〇〇をあげ、最も大阪らしい表現はもとより、歴史的地名・歌謡・俚諺・遊戯・風俗・習慣・年中行事を微に入り細をうがって解説する。
町の雰囲気、人々の生活・人情まで生き生きと映し出す編者ならではの無類の事典。 全項目にアクセント付き。 *牧村史陽(まきむらしよう)
明治31年大阪船場の木綿問屋の長男に生まれる。 大倉商業卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ちこむ。
昭和27年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。 「郷土史は足で書け」が持論であった。 大阪文化賞などを受賞。
昭和54年没。 主な編著書に、『史陽選集』(53巻)、『難波大阪―郷土と史蹟―』、『大坂方言事典』などがある。
文責・柴田嘉和
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